演歌の心にジャズは入り込めません

微笑みの貴公子

2008年02月17日 09:30

天が二物を与えたとして、ナット・キングコールと美空ひばりの記事が西日本新聞2008.2.16夕刊に掲載されていました。


二物とは、前者にはピアノ演奏と歌声、後者には演歌(の心)とジャズ(の心)というわけです。


ここでは小栗勘太郎が、ひばりの、ナット・キングコールトリビュート盤をとりあげ、天はひばりに一物目の演歌のみでなく、二物目のジャズの歌唱力をも与えたと、まさに絶賛しています。


しかし私にとって、「ジャズにおいても一流」とはどこを取って言い得るのかまったく分りません。


人口に膾炙(かいしゃ)している「真赤な太陽」を聴いてどこにもジャズのノリはないように、ひばりにジャズのノリがないのは当たり前で、演歌のノリとジャズのノリ、両方を完璧に持つなどありえないんです。


演歌歌手に少しでもジャズののりを求めるとすれば、八代亜紀のほうにその資質はあります。


男性でいうと、森進一にはあって、五木ひろしにはありません。



ここで取り上げられている、ナット・キングコールは(ジャズの)ノリのよさでは最高の歌手だと私も思いますが、このノリにひばりが追従できる訳がないんです。


ひばり礼賛もここにいたると、「裸の王様」然で、談志・たけしを“他人(ヒト)に負けないように”礼賛するのとおなじ、いわば強迫観念とでもいえそうで気持悪いばかりです。


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